果てより。

先日感想らしきモノを書いた恐竜と生きた男の序文より。「数万光年離れた惑星から観る地球は数万年前の地球の姿。それを解析して過去の地球を見る」という方策。現実的には無理と、書き手であるアーサー・C・クラーク氏は仰っているが夢のある話やなあ、ワクワクする。実際やる方法としては、宇宙一周してきた過去の光を増幅、解析して過去の地球の像を見る、となるよう。ゴッドシムのようでほんと面白そう。人々の頭のてっぺんばかり映るとしてもな。



距離によって視覚の実像の時間が変化するってのは理論的かつ現実的な事と判っていても、何故かそれを想像すると、不思議不可思議で面白く感じる。広義な、狭い世界を生きている人間という生物であるせいで極大に対する解釈が正確に出来ない、というより寧ろ元々万物そのものを捉える事が無理な話であるし、特にそういった認識出来る概念的な絶対値を越えたモノと対峙した時、自身の思考の整合を保つために神秘性で括って無理に認識しているというだけの話か。そういう自己以上無限大、或いは極小、無への畏怖とも憧憬ともつかない感覚の、認識の枠組みと云うのは複雑で特別なものが多いが、神秘と云う枠組みのポジとネガで反応だけは分離出来そうだ。

ラジオ電波が宇宙一周して地球に戻ってきた、という話はフレドリック・ブラウンがやっていたんだが(実際には違って、その事実のずれが話を展開させる原動力になるのだが)その話から受ける感覚が電波と光では全く印象が違うのも面白い。原理的に神秘でそこに留めて認識しているが、そこから生まれ出る末端の現象は現実として認識して、そこから想像が発展していると。神秘を核に現実を飾り付け、様々な光を当て影を刻み投影し様に我らに語りかける。影絵芝居。それがセンスオブワンダーの真髄。なのかもしれない。