失敗作。

「マーカーチェック、根源的誤差無し。承認されました。おはようございます教授。」そういう機械的な女声に尻を押され、整然としつつも何処か男寡の生活臭が漂う研究室へと入った。この胡散臭い魂の牢獄とも今日でお別れだ、と心の中で嘯きながら、中世の錬金術師が集めた趣味の悪い生物のホルマリン漬けの様な、時の止まった複雑な配線をぶら下げた構造物を納め林立する透けたパネルの間を滑る様に縫い進み、だらしなく傾き背もたれの皮が弛んだ椅子に背中から飛び込んだ。小柄なその教授の勢いを受けた椅子は古の功夫マスターのように沈み込んで衝撃を受け散らした。教授はそのまま天井を見上げ、その染みの一点も継ぎ目も存在しない不完全な天井をみながら一言二言何かしら口の中で自分への呪詛のような言葉を廻し、嫌そうに肘掛の側面にあるスイッチを押した。すると円盤の上に浮いているその椅子がまた柔らかく動き、項垂れる教授の顔がモニターへと向く位置まで競り上がり、アイスクリームサーバーの上で転がるクッキー&クリームのようにくるりと廻り、静かに静止した。やればいいんだろやれば。そう思いながらも口に出さず、教授は両手を前に突き出し、手を開いた。開いたと同時に、モニターから掌へと青白い収束光が当たり、その掌の下に無数のキーが浮かび上がり、指を貫き支えるようにキーが集まり始めた。色白くほそっこかった男の手は光るグローブへと変わっていた。「オモイカネ。残りの作業はどれ位ある。」と教授が眼前に広がるモニターに言った。すると光る両手の間に艶かしく輝く唇が浮き出し、言った。「あと二百冊で書籍文献は終了です。推定所要時間は七時間四十六分と思われます。総作業としては撒布した観測機の蓄積データの読み込みとリアルタイムでのリンク結合を行えば終了です。その作業に必要な人的労働力はゼロですので、「残りの作業」からは除外します。」これだ。と教授は思った。お前は一言多いんだ。毎度の事だがいらいらする。「二百冊で貴方の作業は終了です。」でいいだろう。そう思ってはいたが、口に出すことは出来なかった。この極大網自律収束型事象構築演算機「オモイカネ」は私の悪態まで収集しやがる。そのうえ一言二言私が喋るや、その動作や抑揚を蓄積された過去総ての情報と照らし合わせて、私と云う人間の成りや性質を細かく構築し、分析、向上させようとするのだ。

二年前、だからこの世界規模のプロジェクトを立ち上げてから八年目の事だったか。あの時、既にある程度集められていた情報に加え、私の作り出した論理飛躍システムと抽象概念の選択的乱数の混合プログラムによって、このオモイカネは一気に原型としての完成へと近づいた。私はその時、自分で言うのもなんだが珍しく正気を失うほどに歓喜した。数々の概念理論や行動分析の方策を生み出したこの私でも無限に複合している現実を精緻に分解し完全な演算で答えを導く機械など、正直作り出せるという確信はなかったのだが、そこへ到る完璧な道筋が誰が見ても判る位にすっと浮かび上がったのだ。科学者として、技術者として、そういう隠された摂理へ到れる事は正に至福で、誰もが夢見るところだったし、私もご多分に漏れずそうであった。開発チームが沸き上がる中、幸福感に酔い、得意になった私は思わずでか、こう尋ねたのだ。「オモイカネ、君はこれで天地自然総てを把握し、総てを見通すことが出来るようになるだろう。昔の人間は空を飛ぶ鳥の高さで天気を予想したが、それは必ずしも当たるものではなかった。しかし君は、天気を気にする人の空と、その隣の空と、その隣の空、総ての空と、その下にある総ての物質の動き、流れから1秒後の天気を予想し、そのまた一秒後、一秒後、一秒後と延々と予想し続け、時間があれば幾ら先の天気でもそれを欲する人に言う事が出来る。二つの技術を言えば、それを複合した技術を新たに作り出すことも出来るし、同じ具合に問題を事象に分離して解決策を見出すことも簡単に出来る。人の創造性というものを備え、人の思考力を遥かに越え、もはや人を越えた、神の如き存在になるのだが、それについて君はどうオモイカネ。」するとオモイカネは答えた。「「神」についての情報はまだ入力されていませんので回答はしかねます。しかし、会話の形態からすると今の発言はジョーク、冗談というものであり、会話の正当な答えを求めた発言では無いと認識されます。よって、今の会話に対する反応としては、「笑う」事が適切であると思われますが、「笑う」というのは人間の器質的反応でありますので、オモイカネでは応答しかねます。加えて先程の会話のジョーク、冗談というものは、その属性の会話の質からいうと練達した段階では無く、人間から見て面白いといえるものでなはく、その器質的反応である「笑う」事も得がたいと思われます。教授の社会的圧力やその場の同調圧力によって「笑う」反応を得る事もできますが、私は人類の枠には納まらず、真実以外は述べる事が出来ず、そして真実以外で特定の誰かが利する回答をする事は禁止されております。従ってオモイカネが教授に回答できる事としましては、ジョーク、冗談の質を上げる方策となるのですが、それにつきましても現在情報が入力されていませんので具体的方策は出せません。唯一可能性として予測できるのは、研究室にばかりおられるのでなく、週に二回程度、必要作業量が減る水曜土曜の夜に友人を誘って飲食、歓談する事です。もし友人が居られないのであれば、歓楽街の安全な店に行って女性と会話することをお勧めします。歓楽街の安全な店のデータにつきましては現在情報が入力されていませんので、お答えする事が出来ません。歓楽街の安全な店を探す方法として考えられるのは・・・」忍ばれていた笑い声が堰を切って場に溢れ出し、その笑い声でオモイカネの声は消された。



それはいわば始まりであった。始まりは現場責任者の私の嘲笑であった。始まりですらそういう風なのだ。そこから新たに、ネットワークに散らばる情報を集積し、分析する材料としての知識を蓄えて行くと次第に奴の推測とお節介は鋭く、深く、酷くなり、対象は研究員全員に広がっていた。女性には肌荒れや退室の回数で月経を指摘し休息を勧め、更なる知恵ならぬ知識をつけ進むと、君は美人では無いのでこういう化粧をしたほうがよい、などとも平然といいいのけた。奴に自我は存在しないので悪気は無いし、実際「悪気は無いのですが」と断りをつけるのだが、そもそも自我の無い奴に悪気なんてものが判る訳が無いし、人間は悪気では無く言葉に照らされた事実でも自尊心が傷つくのだ。半年後には女性研究員全員が辞めてしまった。男も似たようなもので、白衣の下の服装に関する難癖、動作、趣味、癖等様々な面での効率の悪さの指摘、理由の考察。そして何より堪えたのはある研究員の同僚への目線の回数で、ホモセクシャルの自覚を促す事を憶えた事で、それを証明するのに脳波、心拍、体温、果ては海綿体の膨張率が何パーセントあがってますなどと否定の出来ないデータを出したのだ。結果、カミングアウトして研究室に居られなくなったり、何処かの歓楽街へ消えたり、自己を見失って精神科へと通院する者も出たり、と、次々と犠牲者を生産し、なんと半年後に研究室に残っていたのは私一人であった。
その頃には残る作業は書物データの入力だけであったし、データ入力という物理的な作業は時間さえかければ出来るものなので、私は増員をせず、一人でオモイカネを完成させる事にした。そこに功名を独り占めする欲心が無かったとは言い切れないが、それ以上にこの状況下では人間関係というものが在るからこそ、問題が起きていると理解したからだ。一人ならば、一人黙していれば自ら何も言う事は無いし、言われる事も少ないだろう。たとえ私の所作から何かしらをオモイカネが捉えて真実を言ったとしても、そこは一人とただの計算機の世界なので私の自尊心を過分に傷つける事はない。機械と違って人間は嘘をつける。そして秘密を匿い、自分に嘘さえつけるのであれば、たとえ真実がどうであっても生きていける。真実の目の前では人は一人でなければ生きていけない、と、そのころ私はそういう悲しい悟りを得ていたのだ。

「我が国で最も優秀な研究者の一人、タカミ教授とそのチームが創り上げた「オモイカネ」は、数多の問題が複雑に入り組んだ現代において明確な解答を示す事が出来る「神」の様な存在であり、我々人類に共通の利益をもたらし、我々人類を新たなる世界構築へと・・・」総理のスピーチが頭の中で鐘の様に響く。絢爛豪華に飾られたオモイカネをステージ中心に据え、得意満面の様子で原稿を読んでいる総理。お披露目のパーティー会場は数々の問題を解決してくれるであろう絶対の預言者の登場に沸いていた。教授はそんな会場の端、熱狂の渦の外からぼうっと渦を観察していた。そいつが神か。そいつを神と云うのか閣下。確かに神懸かった能力は持っていて、何でも答えてくれるだろう。しかしそれは無情の神だ。情を有さない、情を解さない神は、純粋なる神の子にしか恵みをもたらさないだろう。そのような人間が、この世の中に存在するであろうか。そいつは我々の神にはならんよ。教授は騒ぎの目を避け、会場の端を歩き、そんな彼らを透徹せんと眺めながら出口へと向かい、考えていた。ここに居る各国の御歴々はそれぞれの国の権力者ばかりだ。そんな膨れ上がって巨大になった人間が、その原動力となった己の欲情、劣情をあいつの前で隠しとおせるだろうか。衆目の中で嘘を立て通せるのだろうか。教授は出口の前で止まり、振り返って総理が叫ぶ起動のカウントダウンに呼応してグラスを掲げる人々の姿を見て、足早に会場を去った。
後ろ背に機械的な女声が響く。「こんばんは、皆さん。私は「オモイカネ」です。」

その夜。教授は研究室に再び格納されたオモイカネの前に座り、件の椅子で天井をぼんやり見つめながら考えていた。ここの天井には染みが無い。継ぎ目も無い。世界とこことは完全に分断されていて、ここには私とお前しか無い。ここは世界とは違う場所なのだ。お前の居る世界は、世界から分断されたここでしかないのだ。
教授は席を立ち、薄っぺらい鞄の中から携帯用の防火斧を取り出して意を決したようにゆっくりと歩いた。仰々しい外装パネルで囲まれたオモイカネの前に立つと、しっかりと柄を握り、振りかぶって目を瞑り祈った。その時、不意にオモイカネが声を発した。「教授。」はっとして驚いた教授。「なんだ。」オモイカネは相変わらずの機械的な女声で言った。「教授は右利きですので、斧を振り下ろす際の握り手は右手が上が好ましいと思われます。現在の握りですとインパクトの瞬間に力を入れづらいです。そもそも、特殊合金製の外装を壊すならば携帯用防火斧などでなく、せめて消防士用の防火斧、周囲の被害を考慮しないのであればTNT爆薬、或いは・・・」
教授は甲高い奇声を発しながら斧を振り下ろした。




丁度その瞬間。
お披露目のパーティーにて、悲劇の過去の一部を否定された民族が暴言の主を打ち壊そうとコンプレッサーを肩に研究室の入り口に到着した。
丁度その瞬間。
お披露目のパーティーにて、自らが誇る過去を否定された民族が研究棟に火を放った。
丁度その瞬間。
お披露目のパーティーにて、戒律の不合理性を説かれた民族が研究棟に爆弾を積んだバスで突っ込んだ。
丁度その瞬間。
お披露目のパーティーにて、世界の中心である事を否定された国が発射したミサイルが研究棟に着弾した。
丁度その瞬間。
お披露目のパーティーにて、神の存在を完全に否定された大国の大統領が、絶望してスイッチを押した。



テレビで一部始終を見ていた神はかぶりを振り、電源を落とした。




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