手帳なる預言書よりて

日々作業に追われていると、なんだ、いつ何時も似たような仕事ばっかで変化の無い日々を過ごしてるよなあ、とか思う瞬間があるのだが、こうブログで一ヶ月というスパンを空けて、そこにあった事を手帳を見ながら列すると、思ったより色々とあり、変化に富んでいる事が判る。無論私自身そのものだけでなく自身に関するヒトモノ世界に連動しての変化ではあるが。



時間という要素が入ると、人間は本人単体での事実認識の正確性を極端に下げる。これは生物の防衛機構としての脳の記憶のシステムと実際の性能面での機能性の折り合いによって、時事の認識が、個人の経験や本能を踏まえて判定された取捨選択の結果である事が大きな要因である。そもそも三次元世界で生きる我々にとっては時間とは擬似的に可知で実際に連綿と流れ存在し続けていつつも、全くの不可視不可触な「事象」なので、掻い摘んで大雑把に認識する事は当たり前である。時間とは、確実に我々の内から外宇宙まで総てに存在する概念であっても我々が永遠に直接接する事の無い、別次元の存在のようである。

そんな事を考えていた所、雑誌のコラムで面白い記事を読んだ。時間に触れる事の出来る四次元の世界が存在するとして、そこに生物、知性体が存在するとすると、彼らが我々三次元の生物を観た時、我々の姿形と共に、過去現在未来が同時に見えるというのだ。過去現在未来が同時に見えると言う事は我々は(我々の感覚で言う)止まって見えるという事になるのだろうか。我々が一枚のイラストを見るが如くか、或いは小説の文章の様に理解には目を通して読み解く必要があるのか、等々夢想の余地が在り過ぎる位あるが、そうこう色々と考えていると、そういった喩えに上がった表現ブツ自体、我々の触れる事の出来ない「事象」を端的にでも捉えようとして作り出された別次元の擬似的な存在体験だと思えてくる。勿論擬似の範疇からは逸脱出来ないのだろうが、多少はその質に触れていて欲しいもんだ。

我々は天体から地球の自転を算出し、そこから万人で時刻という概念を共有し、更に不可視である時の流れの一点をも正確に共有する。基調となる一点が示され、時分秒という階段が示される事によって過去や未来を望んだ気になれるのだ。また、複数の絵等の事象を順に並べ、その差異から本来とは別の時間の流れの様なものすら作り出しもする。本来触れる事の無い、いわば神の様な自然の事象の一端を現したり作ったりするという事は、神や悪魔の力の一端の発現という、古式ゆかしい魔術にそっくりだ。そんな風に思っていると、ビルの上の大時計や、テレビに流れるアニメ。新聞、新聞の風刺画、コミック等等が、大いなる力の一端が解放され、そこに発現している聖なるモノのようにもみえてくる。

SF作家の大家であるアーサー・C・クラーク氏の「十分に発達した科学は魔法と区別がつかない」というお言葉が脳裏を過ぎった。時計の針は十分に発達した科学と云うよりは、ある程度完成された科学(といってもいいのか判らない。そういえば時計って何の分野における発明なんだろうか?)である。その針は時間の流れで動かされている訳では無いが、そこには確かに大いなる謎である時間の流れを我々に示すという魔法が宿っている。科学も魔法も、何かしら摂理の上に成り立って、その大いなる法則の一端を我々に示している事には変わりが無い。