探査惑星P

ここ一ヶ月、W杯だデバだ入院だアレやコレだーと立て続けに連鎖して、ぐるぐると実体の無い空気、状況に振り回され、問題の様子を伺いつつ付かず離れず周囲を高速回転していたら、酔った。げふ。



不規則不可測なのが蝶が羽ばたいて直線距離で12,000km離れた場所で天候が変わっちゃうと嘯かれる程多種多様な事象を孕み接しあうこの星での常であり、我々が認識する目の前の事象状況の変化は言ってみれば星全体の事象同士が前後の事象と連結しつつも折り重なる地層のようにそれぞれの等差を保ちつつ、その差が開いたり縮んだりし、その折衝による歪の極端な解放で人個人という極小な地を揺るがすか、或いはぴったりと互いの形にはまるか、形にはめるかという選択やその要素であり結果の発現だ。

そんな巨大な情報量を持った因果因縁は人が把握出来る筈も無いが、端的にでも把握する為に、自分の中に認識した事象を自分の理解で配置して、自己の世界を構築している。これはいわゆる「心」と言われるモノだと私は思っている。「人の心には宇宙がある」って、小説の言葉だかミュージシャンのインタビューだか漫画の台詞だか全く出自は覚えていないのだが、実際に使われた経緯は知らないが、含蓄のあるいい言葉だ。人の心ってのは、極大な世界を人間が認識する為に生まれたもう一つの世界なんだなと、つくづく思う。無意識という宇宙の中に自意識という中心となる星を浮かべ、認識した事象を遠くに輝く星々惑星として浮かべ、それを眺めながら地中深くで思慮し、感じたとおりに自転し、事象の衛星軌道を公転する。時に事象に囚われ過ぎて、自意識が変質、同化同調しすぎて構築した世界を崩す動きをしてしまう事もある。そんな時は、異なる世界を持った他者が、己が持つ星を輝かせ、上手に引き寄せて誘導するのだ。必要以上に輝かせるのはそれなりに労力、エネルギーが必要ではあるが、誰にだって出来ない事は無い。

ダークシティという中篇SF小説テイスト満載な素晴らしい映画の中で「人の心が欲しいのならばこんな所(頭)を探しても無駄だ。人の心は此処に在る。(自分を指して)。」という台詞があった。一見何の変哲も無いキザな台詞の様に思えるが、これまた中々に含蓄のあるお言葉と思った。人と人との間、幾千の俺とお前の間にのみ世界が生まれ、心が表に出、生じ広がるのだ。と。

そんな勝手な深読みばかりして生きていると世界は非常に面白い。例え歪んだ解釈だったとしても、喜怒哀楽、感じる事の総ては人の主観でしか無いのだから、少なくともお得な世界を持っていると密かに自負していたりする。

もとい、自負するようになった一ヶ月だった。疲れた。