今は氷ガキ

某大阪オフィス街コンビニにて。(誇張無し実話)
お爺さんと小学校低学年の孫、そして孫の母親トリオが買い物中。



爺 「なあ太郎ちゃん(仮)、おじいちゃんにこれ買うてえや、さっきお小遣いあげたやろ。」
と、ツマミらしき菓子を片手に、にこやかに孫に語りかける。
すると
孫 「なんでそんなもったいない事せなあかんねん、アホか!」
凍りつく場。
すかさず
母親 「すみませんすみませんすみません。」
本気で平謝り。
爺 「はっはは・・・、元気だなあ太郎ちゃん(仮)は。」
と動揺したような、哀しいような顔で呟く。

至らないのが人の常で、子供は至らない最たる例であるとは判っていつつ、言葉に詰まり、現状を流す事に尽くしたお爺さんと母親がこの後落ち着いた時にどんな心境になるのか考えると少し悲しくなった。暴言の後にすかさず「何てこというの!お爺ちゃんに謝りなさい!」と、平手打ち込みつつ叱り付ければ、一過性の躾だとしても事の顛末を見終えた後の総体としてのイメージがかなり違うんだけどなあ。そういうのって難しいのかやっぱり。

何とも釈然としなかったので、そんな風に悶々と考えていたんだけど、この理想夢想の結末イメージって何かと被る気がするなあ、と思ったら、あー、論語の正直者の話だ。葉公が「うちの村の正直者は、その父が羊を盗んだ時、父が盗んだと証言した。」と言うと、孔子が言う。「うちの村の正直者は違う。正直者の子は父のそのような事を隠し、匿す。それが自然な事だ。」

昔この話を聞いた時、孔子という人はきっとインテリヒッピーみたいなおおっぴろげーで、揚げ足とったり遠回しで深遠な事を言って煙に巻く、いけ好かないおっさんだったに違いない、と思った。ははは。しかし最近自分のその言葉の解釈が少し変わってきた。実際に社会(家庭外)で至らぬ人(子)を目の当たりにした場合、その場でどんな高邁な説法を繰り広げても聞ける頭がある訳が無く、どんな方法でも良いからその事を隠し匿うのが最善手であると。全く揚げ足など取っておらずむしろ現実的な方策である。表立った幼子の悪行を怒る事は、そのシーケンスを後腐れ少なく締め、取り繕うという意図が強い。上手く場を納めると云う行為のようだ。

思えば、私があの子の頃合から今の年齢に成るまでに経験した事象は本当に数知れない。あの子も隠し匿われ、敵意や悪意を向けられる事から護られつつ人の世の間で、人と社会、世界を経験して生きていけばお爺さんにツマミどころか新築のマイホームを買ってあげる位の好青年になっちゃったりするんだろうか。そんな気がしたりしなかったりと、あんな行動からですらどっちの可能性も想像出来る所が人の凄い所なのか。まあどんな展開もお爺さんがショックで首吊ってなければの話な訳で。此の世の何もかもは即解せんし、隠し匿う人が居ればこそうまくこの世は回転す。やっぱりあの局面では子を怒るかせんと、視てる方も吐かれた方も完結出来んよ、ねえこの世総てのお母さん。

しかしまあ、となるとそういう躾って具体的に一体何時何処で行われるのかという疑問も湧いてしまう。子供は悪い事したその場で言い聞かせないと理解出来ないともいうし、そういった悪行への懲罰と良心(的思考)の蓄積のバランスで執り行うとは想像出来るんだけど、それを具体的に行使するタイミングの難しさといったら無いな。全く考え及ばない。子の理解を促す態度である怒りそのものも簡単に行使出来る感情じゃないし、その形から逆に行き過ぎた感情を誘発する可能性もある。説教も大変そうだわ。

というか、親御さんや自分の様な世間の大人にとって都合のいい態度の子という存在なら幾らでも想像できるが、そもそも完全な子供というかその行く先に据える真の意味で完成した人間を想像出来ない。そういう時点で人生という大枠での大局的な答えは無いのか。どんなに良心があって、知性もあり、品もよく、見栄えもして、財産もあり、人当たりもよく、友人も沢山いて、健康で何の心配が無くても、年老いた後に孫に暴言吐かれてへこむ事だって在り得るのだし。って、何だこの終わり方。夢が無さ過ぎるなあ。