家は。

実家つーても近所だし、狭い家なんでこれまた殊更狭いリビングへとあんまりしゃしゃり出て行って、時同じくして帰省しているキョウダイ一家の久々の歓談や寛ぎの邪魔になるのも何だしなと、昔の自室で黙々と仕事やら仕事のネタやら作っていた。もう既に己の棲息する環境とは違う空気が漂いつつもかつては自分の部屋であったという事実と実感がある部屋は椅子の座り心地が良くも妙に背筋が伸び、雑念入らずも異様にはかどった。気が付いたら飯を食うのも忘れ九時前だったので、いつもの実家の感覚で空腹を紛らわす為にリビングへとコーヒーを飲みに行ったらば、ファミリーが一同に会しつつも何やらえらく部屋の雰囲気が堅く、空気が重い。というかあれれ、会話止まりつつ何だか私に視線が来ない。直後別のキョウダイからメールが来て、曰くどうも飯喰いに来なかったやら何やらで協調性が無い、恥ずかしいという話の雰囲気になったそうなのだが。彼らは一体俺が何をしに帰ったと思っているんだろう。転じて、俺は何をしに帰ったんだろう。そう考えていると帰省する理由が無くなってしまった。もう率先して行く必要も無いなと思いつ、そそくさと帰った。
自宅に戻り、また一人仕事やそのネタ作りをしている。戻ってから作った物の中にも実家の場の空気を元にしたネタも色々とあり、更にそれが形にすると結構面白そうで、思索もとい試作しながら薄汚れた古い液晶モニターの前でニヤついていた。ふと、在る筈の孤独に抗そうとする防衛本能がアイデアを面白くしているのか、もしくはそう見せているのかという考えがよぎった。ぼんやりとその答えを考えつつ、眼前を緩やかに落ちる埃を追う。孤独の内に浸りつつもそれを厭世的、或いは自虐的な感覚で嘲笑出来る時、埃の一粒にすら優雅に舞い踊り、命が宿る様で面白い。自分が妙に生きている感じがする。ここは更に狭いが、広々としていて、それでも私の生で詰まっている。冷ややかな生きていく自由があり、それを歓ぶ自分が居る。そう実感し、考える必要性を失い今年もまた仕事をし始めた。



あけましておめでとう。誰でもないどなたか。