読了証印 ウは宇宙船のウ

移動の暇潰しにと本棚の上の隅にある昔の文庫本ブロックから引っ張り出して読んだ。細かい描写なんか殆ど忘れていたけど、面白かったという感触だけは強く残っていたのだが、あの頃より年経た今も、多少受ける感覚に違いはあったが面白かった。色々な意味で。



読んだ本 「ウは宇宙船のウ」 レイ・ブラッドベリ
一冊に纏まった連作では無く、ブラッドベリの短編ベスト版。以下感想。というか思い出話かな。

今でもよく憶えている。SF世界への導入がフレドリック・ブラウンだった私は、その次に手に取ったこの新しいSF短編に対して、素晴らしい発想のギミックやオチを期待して読み始めた。一話目、「「ウ」は宇宙船の略号さ」を読み始めて「ああ、こいつは大きすぎる希望に耐えかねて、XXXXXに成れる筈が異常をきたして予見していた病院送りになるか、発狂事故死するかだな」と、思い、うわあ、いつ歯車が狂うんだろう、どういうきっかけで、話が展開するのだろう、と。ワクワクしながら読み進めた。しかし彼は狂わなかった。それどころかアクシデントや予想外のイベントが全く無かった。私の予想が違えた。披露された話の素直さと裏腹に、歳若く単純な欲望に忠実であった私は私なりの素直さで、あれ、オチは何処だ、と思い何度か読み返したもんだ。当時は、年齢もあって読書量も読解力も、大したこと無い現在と比べても更に貧弱で、語られる話の種々の形態について理解しておらず、感覚的な、イメージ、読了感を楽しむという嗜好が育まれていなかった。そんな訳で当然「ウは〜」を読んでもピンと来なかった。文章は読めたし話の内容も理解出来たのだが、そこで展開される話の何処の部分に感じ入れば良いか理解出来なかったのだ。私は、名作だという推しの元で借りていたせいもあって、今のは例外で駄作だったんかな、と思い込み、次に期待して続きを読み始めた。次の話は「初期の終わり」であった。実の所、これも一話目と同じ類の話なのだが、当時の私に、何故かしら、奇跡が起きた。語り手である父親独白で話が展開するのだが、その父親の目線、見える風景、居る場所、そして何より、思い馳せる事で見えていた「我々」の映像が、ぐるぐると読んでいた私の頭の中で展開され始めたのだ。語り手と一体となった感覚を得た私は、この至極短い短編を読み終えた時に初めて能動的な読書をし始め、この作品は私にとっても「初期の終わり」になった。
今になって考えてみるに、一話目と二話目の違いと云うと、実の所、単なる判り易さなのだ。二話目で強調、噛み砕かれた、これまで私に無かった、与えられたもの、それは「作中のキャラクターの想像力」だった。想像力といえば、ブラウンのミミズ天使の謎を解き明かしたおっさんも大した想像力だったし(無論アレも名作なのは間違いない)、同じ作者の話の総てを否定した男も異常な想像力を持っていたが、ブラウンのそれと決定的に違ったのは、想像そのものだけではなく、想像を含めた総てから「キャラクターが想像し、感じる事」自体が話の根幹に置かれている事だ。二話以後の話も、基本的に想像力によって感じ、行動する人間が描かれつつも、何かしらのトリガーで話全体を締める訳では無い。世界をたゆたうその人間の感覚そのものを謳うというのがスタイルだ。
想像というのは絵空事で、良い大人がするもんじゃあない。それは少年の時に許された夢そのものだ。故にブラッドベリの話に出てくる主人公は、大人になった今見読み返すと、どいつもこいつもただの夢想家ばかりなのだ。だが、本を開き、読み進めると、そこには子供の頃、庭先で飛び行くロケットを見て人類になり、町を脅かす竜に挑まんと荒野に入っり、照りつける太陽の下で戦争し、身の凍る闇の中走り抜けた私が居るではないか。本の中の子供の頃の私。それは、本の中では無く、私に刻まれていて、今でも私の中には瑞々しい子供の頃の私がいるのだ、と、思った。
ウは宇宙船のウ【新版】 (創元SF文庫)

ウは宇宙船のウ【新版】 (創元SF文庫)



誰にとっても名作だとは思わないけど。好きな本。夢が詰まっているのだ。