誰も彼もアマデウス

ある男。高校時代より同じ趣味を持ち、時に下らない話で盛り上がりつつも共同でその趣味の制作をしたり、貶したりしている内にあっという間に大学卒業にまで至り、片やそれを仕事にし、片や似ている業種ではあるが少し逸れた仕事に就いた。彼はある面では私の師であり、また弟子でもあり、間違いなく友人の一人である。



それは、とある私好みで期待している映像作品の予告を観ていた時の事。その5分程の短いプロモを堪能しつつ、制作会社が奴の所だからもしかしたら野郎の名前出るかもな〜、と、ぼんやりスタッフロールを見ていたら。出やがった。冗談気味に思っていて本当に出ると呆気にとられるもんで。正気に返ると同時に複雑な感情が腹の奥底の闇からはみ出て来た

私もそれなりに仕事をこなしており、似たような規模の案件を担った事もある。引け目を感じる要素は無い筈なのだが、あの瞬間沸き上がった感情は、嫉妬、焦燥、そしてわずかな同族意識での喜びであった。好みで期待している=望んでいるモノ という己のクリティカルな願望を知己に賄われたせいである、と思いたいが、器の小ささは見事に体感させられた、そんな初秋の夜。

夜天に浮かぶ雲追い、道は別たれ。里を歩き、灯りを背に、歩く。昨日も歩く。今日も歩く。背にし明かりがその身を雲に映す。我は雲に君を見、君に雲の間を見る。映し身は影、夜天に影を見知らぬ徘徊者、焦がれふみを止む。その身は影、映し姿、君は今日も行くよう。我も歩く。今日も、明日も。

劣等感とか焦燥とか。それを昇華出来るという面は良い所。それは一言で言うと張り合い。なんか言い得て妙な単語だ、張り合い。良い言葉だ。気に入った。きっと誰にでもそんな張り合う相手がいるんだろーな。

結局、そういう友人というのは自らを迷い破裂させる要素でもあり躍進する要素でもあるという。我らは自ずから吹き飛ぶ風船みたいだな。まるで。