恩の腹は切らねど情けの腹は切る

>>yoot.com「独立ノススメ、マタハ、モドレ」 第四回 出資<<

出資を受ける場合、或いは出資する場合の心構えみたいな話。



出資の性質上実際の「カネの価値」に「善意の価値」が加味されて当然、と思うは「社会におけるカネの価値」が絶対であるが故という永久機関的自律稼動型の錯覚(願望)。価値の増幅が結果、欲心を刺激してしまう形。社会常識の範疇で段階踏んでそう至れてしまうのがすごい所だ。この経路から逃れられるのは、自身の常識が良識と成りえた人格者か或いは金銭感覚の狂ったマハラジャかのどちらであろうか。

で、何と無しにその発展する感覚に既視感を覚えたので探ってみると「面識の無い、出身校の先輩に会食で唐突に呼び捨て他、余りの傍若無人さに出身校を偽ってすっとぼけたら平謝りされた時の心の源泉を辿った時の答え」と微妙にリンクしている感覚があるのよなー。確か「帰属意識」だったか。社会性を持つ動物は、上下関係を築かずにはいられず隙あらば相手の上役に立とうとするという行為の一環で、現時点で潜在的に優位に立てる帰属要素があると認識した相手には、正当性の如何に関わらず、その論理のアウトラインの確認のみで自らの帰属社会の下属として認識する。その帰属集団は外部に実効的な力を発揮し得るが、属社会的な上下の圧力という点では外部への威力は皆無である。と、まあ聞いてみりゃ何とも当たり前の話なんだけど。

要は、帰属意識というのは、力を募る為の口実であり、向心力でもあるが、単により大きい目的を為す場合に必要とするより大きい力を紡ぎ出す為生まれた後付の内臓器官に過ぎないんじゃないかいというぼやき。本来、他者に付与し、育んでいく事の本懐は別の所にあるのだろうが、実体を認識出来ない程に巨大な社会の中で生き抜く上で帰属しあう事に慣れた我々は、その本分を見失いがちである。

恩は報われる事が無く、報いるは我等の本懐では無い。願いを叶える事にのみ邁進する者の背は力強く、順風もまたよく孕むものだ。