妄言

ぐらぐら頭で繰り広げた堂々巡り。


病床の様に体力が落ちている時と健康時は興味、好奇心の許容が違う。当たり前の話だけども。が、その時の選択を健康時に省みた時、明らかに健康時と違う裁定なのに意外と正常な判断に思えてくるという謎。



考えられる理由は
・一度下した判断に価値を見出す、或いは委任している。
・自分にとって正しい判断を下す事より、自分の判断を以って個性を維持する事自体に意義があると理解している。
・寧ろ健康時の方がシチュエーションに支配されて正常な個人の判断が出来ていない。

どれもあってるようなあってないような、はっきりしないな。どれをとっても、総ての事物における遭遇するタイミングの好悪というのは確実に存在してしまっている訳で、そういった不定な動きで流転する自身が受け取る角度は多分に影響されるのを避けれない。その様な曖昧に決定されるモノなのに反して、その事の好悪というのは文明社会ではそのまま個性の概要を認識するのに使われたりモノを作る人間にとっては作風にダイレクトに影響したりする。

しかし、うーむ。これ自体好悪付けれないかあ。具体例が無く甲乙つけれないから明確にならんせいかとも思ったけど、確実に過程が違うけど結局何かの決断に至るのは違いないし。そもそも決定される性格には正確さも優劣も何も無いか。一方的に蓄積、或いは一方的に浪費されて行く性質の中では決断の良し悪しと結果にしか絶対的な価値を見出せないのは当然というか、必然である。しかし、そうするとその決断という枝葉の元となる生きていく上で養われた理解や嗜好自体にはまさしく自ずから枝葉を広げぬ限り価値が無いとも言えてしまいそうだが。我々の身の内に養われていると謂われる知性とは仮初の枠組みで、我々は単なる知識の選択によりなり得た、ただの知識の集合体での自転車操業の自我であり外界の光に反応して伸びるだけだとか、いやいやそんな。というか何の話だそれは。

根本的な事を忘れていた。事象に対して好悪、良い、悪いって思う時点でその事象の目的は半分達成されている。それ以前の受け手の場合、その場の個々の価値基準自体は然程意味が無くその瞬間以後に、その嗜好、判断自体に意義が生まれる。発する側の意図はそれが見える近しい人以外を除いては価値が無い。自身の外側に向けて発するものも所詮は総て自己顕示であり、意味や意義を求めるのも外側に対してであるから、根源的に自身から何かしらの価値が染み出る事はありえない。自分にとって他人しか意味が無く、他人にとっては自分は意味があると云う。僕達謎の共生体・ホモサピエンス

集団でしか知性を宿せないというネタのつもりが、意味不明の妄言になってしまった。何時か書き直す。といいつつ結局忘れるに三千点。