欠落情報の旅。


ちょおっと海外に行っていた。日本よりちょおっと暑い所に。


写真はDSiで撮影した。デジタル一眼レフ持ってるくせに旅行の写真とかは滅多に撮らないという性癖(というか持ち運びや管理が面倒)で、何よりそもそも私用での渡航では無くカメラを振り回すのも難があるよなぁ、と、今回も記憶して帰りゃいいかとふわふわ行ってみたのだが。いざ現地に着くとこらすげえぜーとカシャカシャパチパチ。うぇるかむとぅざじゃんごー俺ー。やたら左折する車。道路ぼっこぼこで街中ジェットコースター。*1凄いきれいなホテルやレストランの壁天井にヤモリがベター。*2かしこまった酒宴中これまたかしこまったスピーカーのグラスの中に虫がポテ、必死に出ようとグラスを這いまわるもワイングラスだったせいか構造的にねずみ返しのようになってて出れずにグラスをはじく音がスピーチの後ろにカンカン鳴り響く。これがガムランの起源かーなどと感心し、いやもう何をみてもテンション上がりっぱなしで。気付いたらおっさんが恥ずかしげもなくDSiをカシャカシャ鳴らしまくっていた。*3

DSiカメラの解像度自体最近の携帯以下だし、もともと自分に写真の腕がない上に歩きながら撮りまくってた写真がほとんどでどれもぶれまくり。だけども自分の記憶とは直結していて、あの時の暑さだとか匂いだとか色彩だとか、人や動物の動きだとかを写真をみて思い出すのだ。そもそも写真なんて体験した視覚を無理に二次元に落とし込む代物で、そこに作品性とか作為性とかを盛り込める人じゃない限り情報の媒介として不完全であって、記録として他人に見せるという観点からすると解像度なんて不要なんだよね。物体として固有の特徴を認識できるレベルであれば、そこに言葉を織り交ぜる事によって記憶としての解像度の高い「話」つーやつが出来上がるんだー。だからDSiで十分なんだー。
などと強がってみないとやってらんないのであった。暑いわ湿度高いわで機材には最悪だったけど、ええとこだったわー。無精者の自分が今になってうらめしい。


現地を紹介する雑誌の写真がもっと凄ければこんな事も無かったんだけどなぁ。あ、これは要するに雑誌のカメラマンが「話」を語る解像度が低かったという事か。プロつっても大したことねーなあ。
などと自らの不甲斐なさの転嫁気味に考えていたのだが。他に普通の立派なカメラを持って来ている方がいらっしゃったのを思い出し、それを踏まえると逆を返せば自分がカメラの必要性を見いだせなかったともとれる事にも気づいた。あれ、解像度が低いのは良いカメラの必要性を見出せなかった俺の目なのか。


解像度という言葉は、いわゆる視覚的な情報の細かさ、単位辺りの情報量の多さを指す。しかし現実において、そもそも伝達しようとする情報が大元の事象そのものである事は(元々媒体が同じでない限り)ありえないし、その情報を含有する媒体とその媒体を認識するものは必ず同一でないので、それだけで数度の齟齬、情報の劣化や変質が発生する。その前提があるゆえに解像度とは単なる理解の可能性の選択肢の幅であって、そこに倍率として介する媒介、受け手が存在する事によって、結果的な情報量が決定されるという過程の一部でしかない、絶対的なものではないように思える。


とはいっても何事にも限界はある。レンズキャップを外し忘れて撮りまくった写真をみせて伝わる事実は、どう雄弁に語ろうとファインダーを覗かずボタンを押しているだけというお粗末さが主題になってしまうし、延々とブルースクリーンを見せてこれが芸術だとうそぶくには遠大か、あるいは深遠なる前説が必要になる。結局のところ、語る場所が絵面や口に分散していくと、それらをつなぎ合わせていく過程でそれぞれ固有のデフォルメされた一面に解像度という物量的な情報が負けて、主題が変わるのである。何事もバランスが肝要ということだろか。

僕がDSiで撮った写真と、この日記はどこぞの誰かに何かを伝えるのであろうか。そう覚えながら、確固たる意思もなく、ただ自分の感じた面白さを原点に、この欠落した情報たちを旅へと送り出すことにした。何を求めるわけでもないが、本来欠落していた部分に何かが見えてくれれば幸いである。

*1:南米とかと同じで故意に盛り土してスピードを落とさせているそーな。

*2:縁起ものらしい。日本でも同じポジションだったよーな。

*3:DSiは携帯と同じで撮影時に必ず効果音が鳴る。