続く。

上下左右に過去未来、「朝のリレー」じゃあ無いが、何処で日が沈めば何処で昇り、一日は途切れる事が無く、人の世も連綿と続き、何かしら起こり起こされ続ける。そんな知覚を越えた無限の中を人は己の領分という無意識で囲って生きてはいるが、とかく人の世は理解するには難く言を発するには易いのだ。絶対少数である自己に相反して無限を誇る他者が無遠慮に発する言葉が易々と己の世界に入り込み、上手く形を成せぬわぼけぇ、と大小の怪物となって意識の中で小躍りしやがる。知覚し形成されたその世界は胃壁と直結してるのか、はてまた我が脳が胃にあるのかは知りえぬのだが、怪物軍団を組織した彼奴等の行軍は胃壁の固有震動の波を捉えて圧力をかけてくる。えもいわれぬ圧迫感。「早く人間にナリターイ」みたいな。真実とはいわん。マトモな姿をくれよ!とシュプレヒコールが四六時中。脳幹を跨ぎ、百鬼夜行さながら右脳と左脳を無限を描いて行進する。まあ憐れな怪物どもなのだ。怒りはせぬ。我々の主観からして美醜は問えぬが、少なくとも事実だけは持ちえた筈だったのだが、その事実が身の肉に埋もれているのだ。


人の間を飛び交う言葉とは意味であり、ひたすら何かしらの形骸であり、事物事象を指すの断片のイメージである。が、それは実の所、現実の事象そのものとは絶対に符合しない記号でしかない。個人が持つ世界に入り、そこで複数の言、情報と照合し、削りだされて初めて、事象や事実はマトモな姿として個人の世界に存在出来る。際して削りだされたモノの現実との差異、精度は、結局の所誰にも判らない。人を介さずに、個人のイメージを寸分違わず比較する方法は、他者が絶対的な相違である限り無いだろうし、それは多様さ故に発展した文化を抱いている人という種として否定する事は難しい。我々は総てにおいて判断、納得する事しかない。事象を錯綜させ、迷走、暴走する事で、個人個人の像を作り、心象と世界に宛がう。個々の真実は迷い考えることによって選出され、そしてただ決定される。人の世が続く限り、それらは言となって飛び交い、言によって我等の真実は延々と変わり続け、己が世界もまた変わり続ける。