[甘党]+[納豆]好き=[甘納豆]好き

哲学的な意味では無い、事象を区分けするという意味合いでの「属性」という言葉はいささか乱暴である。細かい尺度は無く、より精緻に実体を伝えようとする場合、前述の属性のニュアンスの差異を、別の属性を付加して意味合いを増やし、対象を結論へと連想しやすい様にするしかない。手法としては意味を肥大化させる事が常なので絞り込めず、結局は連想という段階にしか導かれないのだ。つまり属性とは事象の性質の一端を現しはするが、絶対に事象そのものは示さないという、分類上の名義なのである。



もっとも、PC上では属性という言葉がよく使われ、重宝されている。それはPCの上で使用される情報が本質的に一元的なモノで、属性に合わせてその情報を組み合わせて運用するからである。PC上では本質が存在せず、本質が存在しない世界では虚実も偶然も存在し得ないので、そこには本質と等価なモノだけが存在している事になる。そんな実体の無い、掴み所の無い世界では属性という括りの存在が不可欠である。属性はその実体そのものを示さないという本領から外れる事無く、そのかりそめの本質を変化させる事で、そこに納まっている。総じて相性が良いのだ。

だが現実での属性は、どうあっても乱暴者である。現実には事実が前提としてあり、それを解し伝えるのを幇助するという特定の場合に属性を提示する必要性が発生するのだが、前述の通り属性自体には尺度が無く端的な理解の顕現なのに加えて伝える個人の知りうる事実も多角的に捉え総体として見出されていないとその事実自体も不完全な属性の産物でしかない事になる。そしてまた、逆に考えると、そもそも自身という独立した自我を持つ我々は、現実にある全ての事象は他者であるので、本質的には属性でしか認識していないという事実も存在している。ただし、それと認識した事実の実体との差異、正確性は知る由も無い。捉えた側にとっての真実のみが存在している。それでも世界は廻るのも人間の強い自我故と思えるが、それは措いておく。何か嵌りそうな話で怖いし。

自分にとって遠い存在、見るだけの存在、周知の存在は非常に属性付けし易い。本人にとっての事実が少なく、客観視して捉えた一般的な真実が明確にあるだけで、何の軋轢も生まれないからだ。
[ネズミ嫌い][ドラヤキ好き][ロボ] ドラえもん。ネズミ嫌いだけでも判る。
[極悪人][蜘蛛][地獄]  「蜘蛛の糸」のカンダタ
[泥棒][孫][ワルサーP38] ルパァーン三世。
イメージでしか存在せず、客観視しか出来ない創作物のキャラクターは永劫に近づく事が無く、特に属性で伝え易い。そのキャラクターの奥深くを描く場合も、手法に違いはあれど、基本的には属性を新たに付加させる事に相違は無い。作られた存在である彼らは、そもそも受ける各人が個人でその内面を補完するのが手法にもなっているので(行間を読むという奴でもあるか)絶対的な事実を基にしていない。が故に受けて個人が彼等の絶対の人格を持っている。

では逆に、近い人間はどうであろうか。一緒に住んでいた親兄弟、恋人、気心の知れた友人を属性で表す。自分自身で認識するだけの場合は非常に簡単である。単に血縁による続柄と性別を並べるだけでも可能だ。それは認識に楔をうつという属性付けの必要が無い位に相手の細かな事実を沢山把握していると認識しているからで、その状況での属性は単に付箋としての役割を担っているだけだからだ。しかし他人にその近い人間を属性で伝えようとする場合、状況は変わる。対象の人物の属性と出来る事実が多く、かといって単体の属性そのものは個性の一端の大まかに振り分けでしかないので、説明としては不足する。よって補足として新たな属性を付け加える、加える、加える。結局最終的に伝わるのは面倒を避けた簡潔な人物像か(いい奴、とか)あるいは色々な属性が複合され、デフォルメされた変人めいた人物像のどちらかである。

要は実際付き合って見ないと判らない、って事に帰結する。なんじゃそりゃー。ホント私は意味の無い話が多い。誰かヘルプ。